見出し画像

やりたいことがなかった私が大人になって大きな夢を語れる理由 米良はるか #私の夢を支えてくれる人

「誰もがやりたいことを実現できる世の中をつくる」
READYFORが掲げるビジョンは、代表取締役CEO米良はるかの夢でもあります。「やりたいことがないことがコンプレックスだった」という米良が、はじめて明確に夢を抱いたその過程に、どんな人たちの存在があったのか。#私の夢を支えてくれる人 をテーマに、日本初のクラウドファンディングReadyforの立ち上げ前まで遡って、これまでを振り返り、これから実現したい未来について、語ります。

「道を“選ぶ”のではなく、つくっていく」両親の背中と夫の一言

今でこそ、経営者として、明確なビジョンを描く米良。はじめから起業を目指したわけでもなければ、かつては、やりたいことがない自分に劣等感を抱いていたほど。それでも米良のなかには、「やりたいことを仕事にしたい」という思いがあった。

その背景には、両親の存在がある。資生堂のコピーライターとして活躍した後、クリエイティブの力で社会を変えていきたいと、事業を興した父。同じ資生堂で、地元である富山の販売員から、持ち前の社交性で好成績を上げて、4年目にはNYへ赴任していた母。米良が生まれると同時に仕事を辞めているものの、母の話や元同僚たちとの関係性から、その仕事ぶりが垣間見えた。

「親も好きなことを仕事にしていて楽しそうだったので、その影響で、私も好きなことを仕事にしたいと思っていました。でも、いざ就活の時期になっても、自分のやりたいことがわからない。そんな状態で、就職先を選ぶことがどうしてもしっくりこなくて、前に進めなくて。当時は人生にすごく悩んでいました」

画像1

就職活動を前にした大学3年時、自分の進むべき道がわからず、迷い立ち止まっていた米良。そんな彼女の背中を押したのは、当時所属していたゼミの同期で恋人、現在の夫の一言だった。

「狭い世界のなかで悩んでいても広がらないから、留学したら?」

帰国子女で世界を見てきた彼の提案を素直に受け入れた米良は、ロンドンへ短期留学。そこでの出会いが米良の“仕事観”を変えた。

「それまでの私は、業界や職業など、今ある選択肢のなかから“道を選ぶ”感覚を持っていました。でも、留学先で出会った人たちは『〜〜をしたいから、〜〜のキャリアを選ぶ』と、職業はあくまで手段であり、その先にやりたいことを持っていたんです。しかも、そこへ行き着くための道を自分でつくろうとしていた。道を選ぶんじゃなくて、つくっていいんだって思えたんです」

画像2

(留学先で友人たちと)

ロンドン留学をきっかけに、仕事、そしてやりたいことに対する視点が変わった。

「仲良くなった香港人の華奢な女の子がパイロットになりたいと言っていて、“無理でしょう”と思っていたけど、4年後に本当に夢を叶えちゃったんです。私が彼女に対して“できない”と思っていたのは、すごく限られた場所のルールにとらわれていたから。私が見ている世界がいかに狭かったか。別の場所から違う視点で見れば、実現までの距離や難易度が変わってくるという気づきを得ました」

彼の一言、ロンドン留学で、視野を広げた米良は、新たな夢を描き始めた。

最も高いところまで視座を上げてくれるメンター

米良が夢を描き始めたきっかけは、人工知能(AI)研究の第一人者である松尾豊先生との出会いにある。

「Readyforの立ち上げにおいて、松尾先生の影響は大きいですね。松尾先生は、私個人のメンター。最先端の技術で未来をつくる仕事をしていて、新しいものを生み出そうとチャレンジする人間を応援してくれます」

今から約10年前、当時大学3年生だった米良は、慶應義塾大学で応用経済理論・経済政策を専門とする藤田康範ゼミに所属。東京大学の松尾研究室と共同で、人物プロフィールと相関図がわかる検索システム「あのひと検索SPYSEE(スパイシー)」の開発プロジェクトに関わった。

「“自分の仕事内容”ではなく、“どいういう未来をつくっていきたいか”を語る松尾先生に出会って、ものすごくワクワクしたんです。同時に、松尾先生のもとで、アイデアがスピードを持って実現していくインターネットとテクノロジーの面白さも知りました」

未来を語る大人に刺激を受け、インターネットの世界に魅せられた米良は、松尾先生のアドバイスを受けて、Readyforの前身となる、個人で寄付ができるサービス「あの人応援Cheering SPYSEE(チアスパ)」を立ち上げた。100万円を超える資金が個人から集まった小さな“成功体験”を得て、この頃から漠然と「インターネットを使って、誰かを応援できる新しい仕組みをつくりたい」という夢を抱くようになる。

画像3

(チアスパでお金を集めたプロジェクトメンバーと)

就職はせず、慶應の大学院・メディアデザイン研究科に進学した米良は、松尾先生の研究所にも頻繁に出入りし、ゼミ生とともにアメリカの学会へ行く際、シリコンバレー見学に同行することもあった。世界でNo.1を目指すIT起業家たちに感銘を受けた米良に松尾先生は言葉をかけた。

「インターネットの世界で戦いたいなら、優秀なIT起業家たちが集まるスタンフォード大学でプログラミングを学べ」

すぐに留学手続きを進め、スタンフォードへ留学。そこで、プログラミングと起業家論を学び、当時世界で立ち上がり始めていたクラウドファンディングの存在を知った。

「日本でクラウドファンディングを立ち上げたい」。そんな思いを持って帰国した米良に松尾先生がかけた一言がさらに、その視座を上げた。

「徹底的に調べ尽くして、世界で1番クラウドファンディングに詳しい人になれ」

その言葉通り、米良はクラウドファンディングに関する論文をまとめて学会に提出。その際、松尾先生は資料の調べ方や論文の書き方を指導してくれた。

「松尾先生は常に私の視座を最も高いところまで引き上げてくれる。求められる着地点のハードルは高いけれど、私は負けず嫌いだから、燃えた(笑)。松尾先生から大玉が降ってくることを楽しんでいたように思います」

画像4

大学院卒業後は、松尾先生が代表を務める株式会社オーマに所属し、米良は、2011年3月、日本初のクラウドファンディングReadyforを立ち上げた。

「いきなり起業するわけではなく、松尾先生のもとで、サービスオーナーとして事業だけに集中できたのは、大きかった。松尾先生はその間、私のメンターとして壁打ちしてくれて、思考を鍛え上げてくれました」

会社を任せられるNo.2とメンバーの存在

サービスリリースから3年が経ち、クラウドファンディングの認知も広がり、事業として利益が生まれるようになった2014年、オーマからスピンアウトするかたちでREADYFORを創業。米良は起業し、経営者になった。でもそれは、彼女にとって目的ではなく手段であり、やりたいことはその先にある。

「もともと起業したいとは思っていなかったし、会社経営に興味があったわけではないけれど、自分を奮い立たせるために、法人化を決意しました。結果、起業家として、夢を語る必要性が出てきて、今の会社のビジョンを掲げて、以来ずっと道しるべになっています」

この頃から、米良ひとりの夢は、会社のビジョンと重なり、確固たるものになった。自分たちがつくりたい未来を実現するために、米良は、No.2となるビジネスのパートナーを探した。その過程で出会ったのが、現在共同代表を務めるCOOの樋浦直樹だ。

「樋浦は、やりたいことを実現する道を一緒に考えてくれる人。私はどちらかというと感情的で、抽象的な概念で大きな未来を描くのが得意。そこに向かう具体的な道のりを樋浦が論理的に組み立てくれる。創業当初は、毎日いろんなことが起きて凹むこともあったけれど、樋浦は変化に強く、論理的に考えて常に前を向いていたので、助けられてきました。

樋浦は私という人間だからではなく、私が描く未来を信じてくれている気がする。私の夢、READYFORのビジョンを実現することが、社会に求められていると、論理的な思考で、確信しているんだと思います」

画像5

(創業から1年、樋浦とメンバーと)

同じ夢を持ちながらも、“正反対”な思考と能力を持つふたりは、常にぶつかり合いながら、お互いの信頼を深め、メンバーを率いて、前に進んできた。

米良が樋浦の存在を強く意識したのは、サービスローンチから6年、創業から3年が経つ頃だった。2017年7月、米良は、血液がんのひとつ、「悪性リンパ腫」の宣告を受けたのだ。保証のない自分の未来に絶望し、不安を抱きながらも、樋浦にその事実を伝えた。

「そうですか…。でも、大丈夫です。READYFORは、僕が守るから」

経営者として、サービスオーナーとして、そのすべてを背負って、心のどこかで“ひとり”で走ってきたと思っていた米良は、樋浦のその言葉で、“ひとりじゃない”ことに気づいた。勇気づけられた米良は、治療に専念するため、落ち着くまでは会社を離れ、樋浦に、メンバーに、任せる決断をした。

樋浦を共同代表に据え、経営には一切関わらず、半年に及ぶ抗がん剤治療を終えた米良は、無事、12月末には症状が落ち着いた。そして、2018年1月、代表取締役CEOとして現役復帰を果たした。

「病気になって会社を離れた半年間は、たくさんの気づきがありました。なかでも大きかったのは、会社といい距離を保てるようになったこと。それまでは、会社と私があまりに重なりすぎていて、自分がいないと成り立たないと思っていたんです。でも、私の不在中も会社は順調に成長していて。私と≒ではなく、会社にも人格があって、みんなに育てられて、可愛がられている。親として私がそのすべてを担わなくても大丈夫だと“子離れ”できました。私にとっても、会社にとっても、必要なことだったと思います」

サービス、そして会社の「生みの親」である米良は、「育ての親」の一人として、メンバーという「家族」とともに、外部の力も借りながら、“我が子”をみんなで大きく育てようと、思うようになった。

画像6

「私が会社を休むことができたのも、会社の成長に必要な気づきを得ることができたのも、樋浦をはじめメンバーのみんながいてくれたおかげ。特に、創業前から一緒に会社のアイデンティティをつくってくれて、私がいない間も走り続けてくれた、初期のメンバーは心の支えになっています」

勝負の時に“超優秀”なメンバーと同じ夢を見られる奇跡

「想いの乗ったお金の流れを増やす」

半年間の休業から復帰した米良は、実現したい未来への思いを強くし、新たなミッションを掲げた。

「お金の流れが変われば、人の流れが変わって、世の中が変わる。たとえば、スタートアップ業界も、先代達が切り開いてくれたおかげで、シードベンチャーへの投資が増えています。私が学生だった頃に比べて、若い人たちの働く選択肢に起業やスタートアップが入ってきている。お金が循環していることで、チャレンジしやすくなって、新しいものが生み出される風土ができた。だから、私たちは、想いの乗ったお金の流れを増やして、誰もがチャレンジできる未来を本気でつくっていきたいと思っています」

その夢を実現するため、READYFORは、2018年10月、創業以来初めて、資金調達した。組織、ファイナンスに加え、法律、技術のスペシャリストを迎え、経営チームを強化。グロービス・キャピタルパートナーズCOOの今野穣氏が社外取締役に就任し、松尾先生ほか、各分野のトップクラスのプロフェッショナルたちがアドバイザーとして名を連ねる。メンバーも100名を超えた。

画像7

「復帰から1年、見える景色が明らかに変わりました。個人的にも、30代に突入して、いよいよ本番感がある。成功に向けて、勝負の時だと思っています。そのタイミングで、多様な能力を持った“超優秀”なメンバーと信頼し合って、同じ夢に向かえていることは奇跡。絶対に、やりきりたい」

2019年3月に8周年を迎えたクラウドファンディングReadyforは、のべ57万人から80億円の支援を集める。1万件のプロジェクトが実施され、目標金額達成率は75%と業界最高水準を誇る。READYFORはクラウドファンディングサービスをさらに成長させるとともに、“世の中のお金の流れを変える”ためのチャレンジを仕掛けていく。

やりたいことを応援し合える社会を目指して

「大人になったら、夢は現実味を帯びて、なかなか語れないものだと思っていました。でも、31歳の私は、大きな夢を語っていて、実現できると信じている。それができるのは、家族やメンター、会社の仲間たちをはじめ、私の夢、READYFORの夢を支えてくれる人たちがいるから。私は本当に、人に、環境に恵まれていると思う。感謝しかありません」

画像8

もしかしたら、米良は「やりたいことがなかった」頃と本質的に大きくは変わらないのかもしれない。でも、今は同じ夢を見る仲間がいる。応援してくれる人たちがいる。その存在が米良の大きな夢を支えている。

「どんなに大きなことでも、小さなことでも、やりたいことに向かって、実現できるかどうかは、応援してくれる人の存在が大きい。READYFORは誰かの夢を応援する存在になりたいし、やりたいことを応援し合える社会をつくっていきたいと思っています」

米良はまだ夢の途中。誰もがやりたいことを実現できる世の中をつくるために、夢を支えてくれる家族や仲間に感謝しながら、挑戦を続けるーー。

text by 徳 瑠里香 photo by 戸谷信博

※READYFOR noteでは、あらゆる分野で活躍する人たちに、「夢を支えてくれた人」を軸に、夢を抱いた当初から現在にいたるまでの過程について聞くインタビューを連載していきます。

#私の夢を支えてくれた人

※Readyforではさまざまなプロジェクトが実行されています!

※READYFORでは一緒に働く仲間を募集しています!

#未来への想い